障害者夫婦の日常と育児ブログ

網膜色素変性症の夫と発達障害の妻の日常や、夫が子育てをしている様子などを公開しています。

柔道物語

最近柔道を再開したので、過去の武勇伝(雑魚)でも書き込もうか(・ω・)

 

小学生の頃、遊びで親父に巴投げを喰らい息ができなくなって非常に苦しい想いをした…いつか復習してやろうと、中学入学時に見付けた柔道部に入ろうと思ったのが始まり。

 

中1、約160cm 55kg以下級 無段

初めての試合で同僚を力業で投げて初勝利。次戦で連盟の茶帯君の島◯(忘れもしない)に負け。その他めぼしい成績なし。

中2、約165cm 60kg以下級 無段

一年間積んだ稽古の成果か、1回戦ぐらいは勝てるようになった。初めての試合の時と同じ試合で、また同期に勝ち、茶帯君に負ける。3年生引退後の地域ブロック別の試合で優勝し、都大会へ繋がる試合でシード権を獲得。…んが、その都大会への試合で別ブロックの優勝者と当たり瞬殺される(笑)

中3、約170cm 66kg以下級 初段

ある大会では優勝、ある大会では連続6人抜きなど成果が付いてきていた。都大会へ繋がる予選であと1回勝てば都大会!って所でまさかの負け(笑) あーあ、と思って帰るの待ってたらお呼びがかかった。過去の地域ブロックの結果を踏まえて敗者復活をするそう。二回ぐらい勝てば都大会へ行けるらしい。一度捨てた命なので、がむしゃらに動いた気がする…。すると、なんと勝利!敗者復活ながら、都大会への出場が決まった!うちの中学では数年振りぐらいの都大会ということで、色々な協力も得て、いざ都大会!1回戦目はがむしゃらに攻めてくる相手に対して裏投げ2本決めて勝利!2回戦目は白帯ながら強い強いと言われていた柔道塾の子。3分間戦い抜きましたが、旗判定で敗れました…。

そうして、中学3年間の部活も引退し、やっと辛いきつい練習から解放されたー!!と思いきや、何故か高校の面接で『柔道続けます!』宣言してしまい、高校でも部活は柔道をやることに(笑)

 

高1、約170cm 73kg 初段

当時高三の先輩に全く歯が立たず、引退後の怠けもあり体力が続かない為、その他一年生たちと一緒のメニューで体力を元に戻す所から始めた。初めての合宿も体験した。大会にもちょいちょい出てちょいちょいの成績を残す。私立抜きの都立高だけの試合で無双し3位。一年生唯一の表彰だったと思う。

 

高2、変わらず 初段 多分全盛期

とにかく大会に出ては表彰状はもらっていた気がする。都大会個人予選では何故か早々負けて、団体戦は都大会出てた気がする。予選では負けるくせに、同規模大会では三年生投げまくり3位。市民大会では因縁の茶帯君(黒帯になってたが)を瞬殺。後程かつての茶帯君だと気づいた(笑)。その後平然と優勝。団体戦で勝ち抜きタイプの都大会予選があったのだが、大会主催高校を一人で五人抜きした時が一番の全盛期だと思っている。その後の都大会でベスト16を決めた。(最後は国士舘の補欠に5人抜きされた)

 

高3、変わらず 初段

まさかの担当教師が転勤。新しい担当が優男だったのか気が抜けて、高2の時よりも弱くなったのは自覚していた。都大会予選でベスト8で都大会へ。しかし1回戦負け。その辺で引退した気がする。引退後、昨年優勝した市民大会になぜか、昨年五人抜きした高校の主将がいた(市が全然違うはず)。五人抜き後、試合でリベンジされていたので、とりあえず頑張って倒した。2回戦は何故か国士舘出の柔道家。なぜこの市にいたかは不明(笑)。あっさり負けて高校生活の柔道は終わった。

 

その後、普通に暮らしていたり仕事してたりして結婚し、息子が生まれた。目に障害もあり、普通の暮らしが難しくなってきた頃、オリンピックで柔道が注目され、久々にやりたくなって試合に出ることに。出る試合は、高校の時優勝した市民大会。パパでも金!を目標に少し練習して迎えた試合当日。試合開始後30秒で息が上がる始末(笑)。ルールも変わっていて自分の柔道ができず、誰かのパパに負けた。その時、もう自分の柔道は通用しない、と実感し柔道着を捨てた。

 

それから3年後の現在。娘も生まれ、息子も大きくなったタイミングで柔道を習わすことに。ついでに私も久々に柔道に通うことにした。半年稽古プラス走り込みである程度の体力をつけた後、またあの市民大会があるのを知り、応募。いざ試合の日。学生時代下に見ていた高校の選手に苦戦。衰えを感じたが、なんとか優勝。試合後は立てませんでした(笑)。そして日々は過ぎ、息子も試合で勝てるようになってきたので、記念に書き留めておきます。

 

その後、視覚障害者柔道の合宿に参加するが、それはまた別の話し。