障害者夫婦の日常と育児ブログ

網膜色素変性症の夫と発達障害の妻の日常や、夫が子育てをしている様子などを公開しています。

視覚障害者柔道への道9(初世界大会まで)

始まりは、今でいう『親父からの虐待(遊び)』からだった(笑)

 

特段仲が悪いわけでもなく、どこの親子関係にもあるように親父には逆らえないような上下関係であった。

家で親父とじゃれていた小学生時代、畳の客間で親父から自称『巴投』を喰らい、息が出来なくなり呼吸困難となった。

その場ではなんてことなく、しばらくして復活し泣きじゃくっていた。

ちなみに親父の柔道経験は『学校で体育でやった』程度である。

これが、私が『柔道』というものを体験した初めての日であった。

 

そんな事も忘れた、中学入学時に『1年生全員強制部活動参加』というものがあり、小学校の頃から仲の良かった友達と柔道部の見学へ。

そこへ体験入部し、当時の先輩から『なんかやってみたい(投げてみたい)技はあるか?』と聞かれ、『投げられてみたい』と発したのは後にも先にも私しかいなかったらしい(笑)

結局同期は陸上部(まともにやってれば長距離関東レベル)に行ってしまい、同学年数人と始まった『柔道』は、反抗期などもあり、まともに練習した記憶はない(笑)

 

多少『試合での勝ち負け』を学び、地区大会で優勝し有頂天になっていた頃、他の地区大会優勝者と対戦し秒殺され、無力を知る。

中学時代で『柔道なんかやめてやる』と思っていたし、お金もそんなにかけれないので柔道着は従兄弟の体育柔道で使ったというお下がりにゼッケンを母親に手書きで作ってもらったり、襟がボロボロになりながら柔道を続けて、ここで転機が訪れる。

 

最後の地区大会で『あと1回勝てば都大会』とかのところで負け。

特に都大会とか頭になく、『出れば試合増える、交通費かかる、めんどくせー』とか思っていたので、これで帰れるな〜ぐらいに思っていたら、敗者復活戦みたいな物をやるとか。

誰を倒し、どう勝ち上がったかまで覚えてないが、人生初かもしれない『本気』の取り組みにより、敗者復活戦を制して都大会出場の切符を得た。

その時の周りからの声援、中学校の先生方からも一目置かれ、期待を背で負う感覚を初めて知った。

『近代柔道大会』に申し込んだ時もテレビの取材も受け、テレビにも『初勝利を目指す弱小中学』とかで出た時も凄かった。

多分、そういうのが本当に嬉しかったんだと思う。

自分の家族以外から必要とされてる感じ、というのが『生きてる感、生きてる意味』みたいのを出させたのだと思う。

 

都大会では、柔道着が買えないので当時の先生の柔道着にゼッケンを母親に縫い付けてもらい、試合会場に孤独に降り立ち、試合をした。

結果は2回戦判定負けだったが、下馬評を覆し2試合フルで戦ったのは凄い経験だったと思う。

 

その後、辞めるつもりだった『柔道』を武器に高校入試(推薦)に挑み、高校でも『都立ではまあまあ強い』ところに進学(近かった)

ポイントゲッターとして団体戦先鋒を任され、年上を投げたり地区ブロックの強い私立高校に勝ったりして、地区シード校、地区シード選手になったり、都立高校大会では第一シードにもなった。

 

あの頃は本当に楽しかったと思う。

午前中授業の時は道場にマット敷いて昼寝したり、わざわざ道場で飯食ったり、夏には牛乳パックに水入れて凍らせて家から持ってったり、とにかく柔道に人生を使った(バイトしたりサボったりもしてた)

 

結局、進路先で柔道がなく、そこで柔道人生も終わり、普通に学生してバイト掛け持ちしたり就職したり一人暮らししたり、結婚して子供ができたり......

目の事もあり、『何不自由なく』とは言わないが、普通の人生を送っていた。

 

子供が大きくなり、小学2年生のコロナ禍直前あたりに『プール習いたい!友達がやってるから』というのが、私の第2の柔道人生をスタートさせた。

 

当時プールは大人気で、近くのプールは高いし、スポーツセンターのプール教室は半年先まで埋まっていた。

その時、『柔道なら教えられる。日本で一番強い小学生なったら辞めていい。』という甘い発言を真に受けた子供は柔道を始めた。

『わんぱく相撲』に出場させて、負けて大泣きしていたのも、柔道を始めたひとつのキッカケかもしれない。

6ヶ月ほど練習させ、初試合を負け、同学年が団体試合に出てるのを悔しそうに見つめていた子供と、私が同じ試合に出ることが決まった。

市民大会で、私は丁度10年前に一般の部(当時高校生)で優勝していた。

子供は同学年クラスのエントリーで、小さい子に判定負け。

私はバテバテになりながら、高校生にぶん回され、どう試合したか覚えてないが3人に勝って優勝。

1週間まともに動けなかったが、1週間後に行った子供の試合にて、この前負けた子に勝って優勝してた。

その後年明けの試合(コロナ禍寸前)、隣の市の試合で小学生強化選手に善戦した子供は3位、私は一般の部で組手が上手く持てず、体力も無く敗退。

視野もほとんど無かった私は、そろそろ普通の柔道では限界を感じていた。

 

コロナ禍が始まり、東京オリンピックパラリンピックの話題がバシバシ取り上げられるようになり、偶然目に止まった『視覚障害者柔道』というネット記事。

そこから連盟にメールを入れたり、電話してみたり、育成合宿というものに参加したり、全日本視覚障害者柔道大会なるものに参加したり、階級を2つ落としたり、強化選手の合宿について行ったり、強化選手になったりして、ついに明日、世界大会へ初挑戦となる。

 

今は大会前日の計量前、最後の水抜きをホテルの風呂でしているところです。

事前合宿で筋肉痛なんでね(笑)

明日の試合は勝つとか負けるとかどうでもいいです。

計量オーバーして連盟に迷惑をかけないことを第一に行動しています。

所詮、という言い方は良くないけど、日本1位という立ち位置ではないんでね私...。

とりあえず世界大会に出場し、日の丸ゼッケンをもらう事が目標だったので、試合が終わって、次の目標を聞かれた時、『優勝』と言えるように気持ちを奮い立たせる何かが起こることを、自分に期待しています。

 

以上、東京国際オープン大会前日の私でした。